今日朝9時の線量は0.042μSv/h。そしてこの24時間は41〜48で推移していたようだ。ピークは昨日の午前11時。
規制委はこれまで使っていた「安全基準」という言葉を、「規制基準」に改めたんだそうな。東京新聞の読者が投稿した”安全基準という言葉を使うから、基準が守られている=安全、という意識になってしまうのだ”という指摘を受け入れたんだそうな。
何度も何度も書いているように、電力会社ちゅーのは総括原価方式で運営されている。つまり原価がこんだけだもんね、というのが明白なら、それは自動的に電気料金で回収できるシステムなわけだ。ならば、これでもか、という安全基準を適用しても、電力会社はコスト的には平気だったはずなんである。しかし現実はそうではなかった。政府の原子力委員会やら経産省の保安院なんかは事業者のために甘い甘い規制を作り、東電もコストを圧縮するために打てる安全策を打たず、そして原発をぶっ飛ばしたわけだ。
総括原価方式なのに廃炉費用や過酷事故対策コストを計上せず、安全性をわざと低く抑えてまでして彼らが何がしたかったかというと、それは原発のコストを水力や火力と並べられる数字にするための、涙ぐましいまでの努力だったのだろう。逆に言えば、マトモに原発の安全コストを計上したら、火力や水力の10倍とか100倍なんていうような、とても並べて検討できない数字になっちゃったんだろう。
しかし、それでは当時の政府は困ったんである。エネルギー問題で自立自存するために、原発と核燃料を輸入してアメリカとの貿易不均衡を解消するために、プルトニウムを自分たちの手に入れて自存自衛するために、そしてある階層の人々が濡れ手に粟の利益を手にするために、政府と電力会社は国民を騙さないといけなかったのだ。原発のコストを極端に低く抑えて見せ、他の発電方式のコストを不当に高くして、原発をまるで一般的な発電方式のように見せかけてきたのだ。
いま、そこから考えないと、原発の再稼働なんて話は出せないはずなんだけど、まだ、そのウソンコをつき通すつもりの人々がいて、そういう勢力がある。彼らが常套句とするエネルギー問題だの経済問題だの国民の生活だのという話は、つまり、為にする話なのだ。我が国の安全保障のために核保有オプション=プルトニウムの保有が必要なんだ、とか、核兵器技術者のレベル維持には原発が欠かせない、とかいう理屈の方が、原発維持のためにはよっぽど正論なんである。