今日朝9時の線量は0.038μSv/h。そしてこの24時間は37〜38で推移していたようだ。
前橋の集団訴訟の裁判は、福井あたりの地裁が、事故への備えの不備などを理由に運転差し止めの仮処分を認めるのと違って、実際に原発がぶっ飛んで、モノもヒトも、本物の被害を蒙ったという、起こってしまったことの責任を問う裁判だった。そのために、現時点の大甘な計算でさえ20兆を超えるカネが失われることになった、原発事件。真正面から問われたのは、国と東電の責任だ。それが地裁とはいえ、なんと国と東電の津波の予見性を認め、不作為を指弾する判決である。
朝日の記事にあるように、群馬県内に避難した住民ら45世帯137人が、国と東電に総額約15億円の損害賠償を求めた集団訴訟は、賠償金額こそ国の数字の妥当性を認めつつ、東電を“経済的合理性を安全性に優先させ、特に非難に値する”と非難し、02年に予見できていたことを、遅くとも東電が中間報告を出した07年8月の時点で“国は事故を防ぐ対策を取るよう命令すべきだった”と、実にまっとうな判断を下した。ついでに書くと、これは朝日の記事にもあるように、国会事故調の指摘に沿った判断なのだ。
だけど、なぜか国会は、国や東電の責任を認めたがらない。国会事故調がちゃんとまともな報告上げたのに、国と行政は自分たちの責任にほっかむりして、原発の電気使ってきたみんなに責任があるとか、なんだかわけのわからない社会的な損害にしちゃうつもりのようで、この判決も、高裁か最高裁でひっくり返るのかもしれない。きっと責任認めちゃうと、どこかの誰かが責任とらなくちゃいけなくなるからだろう。この国の高いところにいる人たちは、欧米じゃ当たり前のノブレス・オブリージュとは対極的な、集団で隠避し合い保身し合うシステムのなかで暮らしているのだ。