高校の頃とか、毎週水曜と木曜は、深夜の近畿放送(京都放送)がやってたこの人のラジオを、徹底的に聞いていた。手元にはラジカセ。そしてチョーラス教室とかがはじまると、赤い録音ボタンと▶再生ボタンを同時にガチャポと押し込んで、あとで何度も聞いたなあ。この人が話すいろいろな話から、そりゃもういろんな影響を受けたなあ。何度もハガキを出して、読まれたときはうれしかったなあ。
昨日(18日)の午後3時半頃、高石ともやさんが亡くなったそうな。そのころといえば、ワシ、時游食感さんで、♪街を唄ってたなあ。京都の地名を一切入れず、京都の歌を作る。反骨の人、高石ともやらしい作品で、ワシもよく唄うナンバー。しかしこんなに早く逝っちゃうとは思わなかったなあ。あの元気さなら100は生きると思ってたけど、さすがにガンには勝てなかったんだなあ。
ワシがいま、ライブハウスなんて仕事をしてるのも、すべてはこの人が悪いんである。音楽なんて基本はただラジオを聞くだけで、自分でやる、それも人前で唄うなんてこれっぽっちも思わなかったワシが、歳喰ってあのころの音楽を思い出して、バンジョーを習いに行ってたところが、ひょんなことからナターシャー・セブンのコピーバンドに加わることになって、音楽をやらかすなんてことにどハマリしちゃったんである。そして月に何度もの練習に何本ものライブに地方のどさ回り(笑)まで経験しているうちに、音楽が日常になっちゃって、とうとうこんな人生になってしまったのだ。すべて、この男が悪いのだ。
この、ワシが“お地蔵さん”と呼んでるアルバム、まさに擦り切れるほど聞いたなあ。あのころ、曲順からアレンジの特徴まで、ほとんどレコードそのものすべてを覚えちゃってたなあ。そんなレコード、他にはカール・ベーム指揮の40番くらいしかなかったなあ。
ワシが、歌を唄うと書くとき、唄う、と書くのは、口を貝のようにパクパク開け閉めして唄うんだからと高石ともやさんがラジオで言ったからである。涙ではなく泪を使うのも、高石ともやさんがラジオでそう言ったからである。半世紀、言いつけを守ってる子どものような気分になってしまうわ。
合掌